昭和40年11月10日 月例祭



  (途中から)
 でございましたでしょうか福岡の、高橋さんところの職人さん、しなさる職人さんです、職人さんの頭をしております方です、お参りを致しましてから、で色々お届けをされます、丁度一週間前のお参りをして参りましてから、「この11月という月はどうでも一つ、おかげを頂きまして、あの本当に一つおかげを頂きたい」と、「それで修行させて頂きたい」と言う様な。
 「これだけは一つ神様の前に、お供えをさして頂きます、神様に誓わせて頂きます」と言うて、奉唱しに「もうこれ以上、ああは致しません、こうは致しません」例えば、お酒が好きなんですね、で「お酒も飲みません」とその中に「腹を立てません」と、というのがある、おかげを頂きましてからお願いをしまして一週間、「おかげで、お酒も飲まんですみ、腹を立てんですみ、おかげをまあ頂きました」と言われる、ね。
 どうぞこの一週間にも、一週間に一遍お参りをする事にしておるらしい、月曜日だけに参って来るらしい「どうぞこの一週間も、平穏無事でおかげを頂きますように」と言うてお願いをなさるんです、でそれで私しはまあ申しました「そうですねこの神様は、いつも御理解を頂いてから分かっておるようごたるだけれども、平穏無事だけを祈る、お願いをするという神様ではない、誰でも平穏無事が良かろうけれども、ね。
 そうとばっかりはいかんって信心しとっても、雨の降りゃあ風も吹くのである、ですから、そういう願いをこういう風に変えられたらどうだろうか?」と、皆さんどうでしょうか「どうぞ今日も一日平穏無事で」と、と、まあそれをかけ年中(笑)祈っておられる、おられる方はないだろうかと、ね。この仏様に参りましても、どこの神様に参りましても、やはり私共がそういう風に祈る事が。
 そう言う様な事を頼むことが信心のように、私共は思うておった、今日もまあ善導寺の月次祭でございましたから、丁度鹿児島の行徳先生の、御大祭での御教話をまあ説教、テープに録音してございました、それを一時間あまりでございましたが、それを聞かせて頂きました中に、「先日善導寺に帰りましてから、久しぶりでお善導寺さんにお参りをした」という話しがございました。
 いわゆる善導寺という町は、もう、おぜんど様であの町が、いわゆる( ? )町で栄えた町ですから、矢張りそのおぜんど様は今でもお参り、参詣者が多いい、久しぶりにお参りさして頂いた、それ長い参道でありますような、お腹の大きい人、だったら赤ちゃんをこうおんぶ、こう抱っこした人、と言う様な人が、行くよりもあったんですけれども、昔からおぜんど様は、ね、
 安産の仏様として、昔からその霊験あらたかというので、お参りが多いにお寺さんである、けれどもですお道の信心は「どうぞ安産のおかげを頂きますように。」ね。というて、安産のおかげを頂いたら、ね、それでお礼参りをさせて頂いた、ね、赤ん坊を抱いて「おかげで、この様に安産のおかげを頂きました。」と言うてお礼を申し上げた、お願いをした。それでもう仏様とは縁がないと言う様な、事ではないそういう信心ではないのだという、事を話しておられます。
 そうですね生まれた赤ん坊が、ね、無事に成長のおかげを頂かなければならん、ね、学校に通うようになる頭が良い、どうぞ学問もおかげ頂きますよう、ね。進学の事を願わなならん、就職の事を願わんならん、結婚の事を願わんならん、子供が出来りゃ子供の事願わんならん。姪子が出来れば姪子の事を願わなければならい、ただお産の時だけお参りをして、ただ安産のおかげを頂いたからというてお礼参りをした。
 その事を持って信心とすると言う様な信心ではないのだ、お道の信心はどこまでも「どうぞこれからの経つ一週間、平穏無事でおかげを頂きますように」というて願うのは信心ではないのだと、私がそれを言うたことをまあ一週間前、そのあっ、2・3日前の月曜日のお礼の時に、そのタキガハラさんと申しますが、にいお話をした事で御座いま。「タキガハラさん、もう平穏無事にいくら願っても、平穏無事と言う事はありえないのだ」と、ね、腹の立つ事もある。
 お酒悩みする事もあるね、場合によっちゃ災難になる事もある、雨もあれば風もあるのだと、ですからそういう時に処していけれる心というものをです、頂かせていただくという事を願うのだと「どうぞ雨が降りましても濡れませんように、風が吹きましても折れませんように」と言う位の願いならば出来るけれども、平穏無事と言う事だけは(笑)。願われん神様じゃ、そこに信心に稽古が必要なのだ、雨が降っても濡れんですむ、風が吹いても、折れんですむと言う様な信心とはどんな信心でしょうか、ね。
 それは雨が降った時には、ね、傘さしなさればよかじゃないですか、濡れんですむでしょうが、それでいつも傘を持って歩かないけませんよと私は言う、ね、風が吹いた時には丁度風い、柳に風えでその受け流される、又はあ風は柳にい任せておる事によって折れんですむように、ね。いわゆる風任せその時任せ、言うなら神様任せにならせて頂くと言う様な、心の状態にならせて頂いたら折れんですむんですよ、私共はこれから一生涯、どう言うようなふぐての中を、おかげ頂かなければならんけれども。
 そういう時に暑い思いをせんですむ、濡れんですむ思いをおかげを頂き、ね、折れんですむようなおかげを頂いていくと言う事を、お道の信心では教えるのですから、ここん所の稽古をなさらなければいけません、あそうでしたですね。「あなたが、この頃お参りなさってから、様々な修行を神様にお誓いになさった、そういう時にはですそういう心を、養わせて頂くために育てるために、あれはなさっなさる修行でなからなければいけません」と言うてまあお話した事です。
 皆さんそこら辺は分かるでしょう、どうでしょうか。そこにです生まず絶えまずの信心がなされていかなければならんと言う事です、「あき深し隣は 何をする人ぞ」と。「荷物だけいくよに、今はかやのかげ」そう言う様なしみじみとした句が実感として、感じられる、時節に時候になってまいりました、いわゆるしみじみとした、時節ついこの頃まで、秋の虫がすだいておりましたけれども、ね、いつの間にかそののちの世の気候が聞こえな、聞けなくなりました。
 「朝晩は寒さを感じます」所謂、すすきのかげに段々いこう様になるでしょう、そういう中でしみじみと、ね。一日終わらせて頂いて今日もおかげを頂きました、家族中の者が御神前に出らして頂いてから、ね、今日もおかげを頂きました「平穏無事で有り難うございました」なら有り難いんだけれども、今日は神様こういうびっくりする様な事があったんです、こういう腹の立つ事もあったんです、こういう難儀な事もございましたですけれども、おかげで濡れんですみました、おかげで折れんですみました。
 いわゆる「信心というものは、教えというものは頂いておらなければなりません、おかげを頂きまいて有り難うございます」と、しみじみと御神前に一家中のものが揃うて、お礼参拝が出来るようなおかげをですね、頂かせて貰いしみじみと家族中の者が、信心の有り難い雰囲気の中に、日々を過させて頂ける様なおかげを頂きたい、どげな様な事があっても信心の雰囲気だけは、無くせんで済む様なおかげを頂たい、私は「お道の信心はここにあり」と思うです、ね。
 ここ2・3日しみじみともう毎日続きながら、連続てっれんぞくの様な御理解を頂いてある、「朝日に手を合わせる人はあるけれども、夕日に手をあわ合わせる人がない」ね、自分の都合の良い事頼まなならん時だけは、神様拝むけれども、ね、夕日に向かってこれから暗くなる前程である所の、夕日に向かって手を合わせ合掌する人が少ないと、ね。朝日を拝むなら夕日も拝ませてもらえれる信心、自分の思う事の成就した事が、有り難いなら、それとは反対になることも。
 御神意を分からせて頂くと、より有り難いと言うことが分かって来る様な信心、ね、そういう信心を一つ身に付けていきたい、ね、そこで所謂すき間があってはならん、ね、例えば障子を立てますと、そのすき間もいとのようにいつも誰彼が入って参りますが、ね。破れてでもおりますと、そこから冷たい風が入ってくる、風が入ってくるだけなら良いけれども、そこからおかげが漏る、おかげがまた漏れるだけなら良いけれども、そこから魔風が入ってくると仰る。
 そこから魔風が入ってくる、どうでもすき間のない信心を、さして頂かなきゃならん、ね。今晩お食事を、今日は(笑)かま「かま揚げうどん」という、しゃれたそのおうどんが出けておった。かま揚げって言うても、そのうどんを湯がいたばっかりに、つけ麺と持って来るやつですよね。普通はあの綺麗に、あのゆすぎあげたりしてどんぶりに盛るんですけれども、もういやぁかま揚げ、もう湯が頂けである、あれはしかし中々美味しいもんです、あれを生醤油で頂くんですね。
 それで私ちょっとこう頂いた所が、どうも醤油の味がある、これはあ折角その、色んな味を楽しませてもらう、ね、味を味を味わわせてもらう、味の味をもって食べさせて頂こうとする時にはね、矢張り味を頂かにゃいかん、そのために「お供えに良いお醤油を頂いとるじゃないか」と、「良いお醤油を持ってこい」ね、匂いで食べる食べ物もありますよね、例えば鍋物なんか時には矢張り、その匂いでその匂い一杯にならなければいけません、ね。同じ見てきたじゃいかんやっぱり。
 目の前に白菜があり、たい鯛ちりなら鯛ちりをするなら、もう皆んなそこに材料、そのお花でも盛ったような綺麗に、鉢なり籠なりに盛って、でそれを目をあらたげると味は惜しいけれどもそのきゅうがなんとも言えんという、ね、味を味わう今日の例えば食べ方はもう拝みたい様な食べ方だったと私は思う、ね。ですからあの盛るなんかは必要のないけれども、本当に美味しく頂くためには、愈々この言わば生醤油そのものが、良い醤油で頂かなけれおいけない。
 これはね私は交流じゃない、不足じゃないこれは教導なんだ(笑)麺でも食べておる、ね。そう言う事に味なんか求めちゃう、争いごとならいいそう言う事ではいけん、味味で食べさせるなら、本当に麺を行き届いて、味で食べさせるような麺、そのためには最後のあのうどんを、うどんのあの汁までね、あのいなき締めまで食塩を入れてから、私は美味しく頂く、ね。
 は美味しいものです、おつな味のもんです、ね、私はなかなか気分やですからその、雰囲気で食べればよいのをその雰囲気を、まあ言うならばです、私は今日は例えば、そのお、よせ鍋ならよせ鍋、鍋やらなんでもするという時にはもう、かけ物から掛けました昔は、かえならしました、ね。いわゆる雰囲気を先ずつくる、ね、そういう所をこう私はこうしよる、したら(笑)( ? )。
 久富先生がみえられたですもんもう久富せっ、あの「親先生ばっかりはもうお粥さん食べさしたらが一番よか」っち(笑)「お粥さん食べさしてくれるなら私はなぁんも言わん」っち私もう是には言わんです「もう有り難か有り難か」っち言うち私は頂くです「もうちょっと美味しか美味しか」「もう有り難か有り難か」っち言うて頂く「ですから親先生はもう、お茶粥だけ頂かせて下さればよかですばい」っち言うて、ね。
 昨夜もそうです、昨夜はお茶粥さんでした、私は四杯半も食べて大丈夫でしょうかね、というもうほんなこつならまあ一杯食べたかった(笑)って言いよった事ですけどもね、家内が喜ぶお母さんが喜ぶから食べる、ね、もう本当に有り難いんです、ね、だから本当に美味しいんです、普通にいくら家内が喜ぶっち言うちゃったぁ、好かんもんばですね、無理してから四杯半も食べられりゃぁしませんよね(笑)本当に美味しいんです、本当に有り難い、ね。
 ですから私は、他のお食事の時にはです、もう例えばのうで飲べるときにや、あれが食べるというときにゃ少し慌てるのですから、もうその慌てて食べる、だからよごすから、エプロン掛けてから食べる(笑)所がねお粥さんを頂く時には、どういったいうなら、もうこぼしたら一番取れんですばってんね、もうもうこれだけは絶対「有り難い有り難い」で頂くからこぼさん、もう白湯の一滴まで。
 それこそお茶をすするようにして頂く、四杯半食べたっちゃそう、もうお膳一つ汁一つこぼさん、もう有り難うして応えん、ね。昨夜もそのそげん話したんですたい、そのうち久富先生が話してち言うちから、私ごと例えて言うならですね、昨日はそのお茶粥さんを飲むとが楽しみ、もうお茶ばこう入れてざばざばする(笑)ね、お白湯はあのもう恐らく高橋さんが用意しなさるじゃろう、あの出し殻の昆布があるです、それを佃煮にしてある、もう言うならば最低の食べ物、ね。
 皆さんのお宅ではどうでしょうか。それと同じ食べ物の、食べ物のない時代「何時になったら白か御飯が頂けるじゃろか」っちこう言う様なのはないじゃろうか(笑)私共は晩だけは必ずお客さんのない限り、こういう茶粥さんです、ね、しかも二食です、ね。それがね、本当に有り難い、ね、お茶粥さんば私が「有り難い有り難い」っち言いよるもんだから、それしのその先生の場合お茶粥さんばぁっかり頂かしときゃよかっち(笑)そげなん事では栄養失調になってしまうですけんね。
 そんそんなわけにはいかん(笑)ただやっぱある場合には、その時分ですから皆で頂くようなたいちりなんかも頂きたい、ね。例えば今日様にその味で食べる、と言う様な食べ物もなからなければならないけれどもです。私の心の中にはです、ひとっつも「こげなんもんが食べられるか!」という口上じゃないと言う事じゃないです、そういう時には、ね、「ムードをこのむ者にはムードを作れ」とて、折角これだけの、例えばそのオご馳走が並べてあるのに、ね。
 例えて言うならば「欲陰謀はかえてこい」って、「かんじょうはちょいとよりつけて来い」と、お返しするなら、ね、「これで夜割烹で食べるならもう一汁にに食べものぞ」、という風にまあ私は言うわけなんです、ね、味で食べる時にはです、最後のお醤油言わば、「あのミジンに切っているネギ一つにでも心を込めておけ」と、「つつがなんだから買うてこい」じゃない、あるのだから、ね、いいにゃ是ぐらいんとは言うたら、もう普通にこれぐらいとはすてなん(笑)ね。
 それはどうぞ皆さんが、誤解になさっちゃいけません、ね、お粥さんの来る時は「有り難い」が、他んとは有り難くそれも有り難い、けどもこれは私が不平不足を言うのじゃない、口上を言うのじゃないだからこそ家内が段々、料理もお上手になっていくし、ね。その頂いておるその物を生かすためなんだ、ね、折角の美味しい物をです、ね、思いを込めたりするというこっそこに、いその鯛なら鯛その物が生かされるのだ、ね、
 「お粥さんの時は有り難い」というのではない、それがもうなべて有り難いのです、ね。私は思うんですけれどもね、まあ、そういう雰囲気とかひとたび時には、まあ口上を言うなら口上を言うてもいい、不足を言うなら不足を言うてもよい、ね、けれども愈々最低の物を食べる時には「嬉しゅうして有り難うして応えん」と言う様な、頂き方が出来るように、までぐらいは一つならなければいけないと思うですね、日常の中に、ね。 例えば降っても照っても、
 (テープがB面に)
 これが頭であろうか、尻尾であろうかと、これは腹わたかも知れないと言う様な中にです、味合いを頂かせて頂ける信心を、一つ身に付けて行きたいと思う、ね、そういう信心をです、頂かせて頂くために、私はしみじみとした、精進が必要であると言う事です、ね、秋がだんだん深まってまいります、ね。しみじみと味合う季節なのです、ね、頂いておる信心を本当にしみじみと味合うと言う事は、美味しい所だけを味合うのではなくて、もうどこもここもが美味しいのだと。
 言うならこれを、普通で言うなら最低の食べ物である、けどもそのその最低の食べ物がです、ね。お茶の手前でもするようにして、頂かせて貰う楽しませて貰い、有り難うならして貰い「美味しい美味しい」と言うて、頂かして頂けれるような、おかげを頂かなければならない、そこで皆さん明日からです、「そう言う様になりなさい」と言うて、何が成るもんじゃないと言う事。
 「先生から昨夜あんな御理解を頂いたから、一つ明日からそういうふうに、一つおかげを頂こう」と思うても、思いのようになからなければ出来る事でもないと言う事、ね、そうでしょうがお腹の一杯の人にです、どんなにひゃくみの御食を目の前に見せても、箸をつけただけでも、もむもう胸が一杯になる、ね、少し食べたらもう食べたくなくなってくる、これやったら百味の御食も、もう地獄も同じ事じゃないですか、見ても途端に胸がムウっとしてくる、ね。
 どういうお御馳走の中にあってもです、どういう億万の金の中に埋まっておっても、そのどんなに立派なお家の中に住もうておっても、で「幸せな事ではあるな」と、ね、「有り難い事ではあるな」というものの、何にも感じられない人がどのくらい、世の中にはそういう人を難儀な、私は氏子だと思う難儀な人だと思う、ね、心の貧乏さだと思う心の分限者にならなければいけん、ね。
 あばら家に住んどっても有り難い、お粥さん頂いとっても有り難い、どのような中であっても有り難いと言えれる思えれる、心の分限者にならしてもらわなければいけん、ね、そこになら「心の分限者になろう」というてなれるものではない、「昨夜ああ言う、お話を頂いたから」ね。「明日から心の分限者になろう」と言う訳にはいかん、というおかげでも、段々溜めに溜めていかなければ。
 おかげがよ良い分限者になれませんようにです。心の上にもそれを積み上げていかなければ、心の豊かさ心の分限者にはなれん、第一神様が許しなさらん、ね、考えてみるとほんにおかげを頂いとる、目も見えよる手も動きよる、ね。だからほんなこつ言うなら「有り難い」と言う事になからなければなるまいけれどもです、有り難い心が湧いてこなかったらしかたがないでしょうが、あれは神様に許されておらんのですよ、ね、
 それはですね、腹ん痛かとがようなると「はぁようなって有り難か」その時だけでしょうが。今日も朝あの親子の、伊藤さんが参ってみえた、あちらをお導きしてから参ってみえる方が。この頃いしっ石橋さんでしたか、お参りしてみえるんですね、もう四つですか、四つですか息子さんがおりますもう可愛いもう本当に娘ごたる(?)に可愛いんです、もう目の綺麗な綺麗な子なんです、ね。
 所がそのものを言わない、幾つになってもものを言わないんです、そりゃあ両親も嘆き悲しい苦しい、ね、それこそ拝み屋さんをかけてからでも、いっちょこれだけは良うなしてやりたいのだけれども、そんなわけにはいけんのである、ね、お導きを頂いてからお参りをしてくる、それで私がその方に申しました「なんて可愛い子ね」(笑)って私もうこの子の目ば見よってってごらん。
 もうとにかくもう本当に、済きっとる目が目の玉が、もう目の覚める様にに色が白くてもうっんっと可愛らしい、ね。こういう可愛らしい子供を頂いて、本当に有り難いと思うたことがあるね。と思うた事がない物を言わんばっかりに、ね、それではいかん頂いておる事だけは有り難く言わにゃん、ね。「もうこんな可愛らしい子供頂きまして有り難うございます」というお礼は持ちなきゃいかんよ。
 したらもう本当に大きな忘れもんしとったごと、「はぁほんに先生そうで御座いましたね」って言うてからそれで帰られた、それでから3・4回参ってみえられました、今日も一緒にお参りするはずだった所が、昨日昨夜出掛けてからお参りが出けなかった、「後でお参りをするから」と言う事であった、ね。昨日朝主人がです、ね、今朝か通勤されどこにか勤めておられますもん。
 それでそのう(喉音)、お母さんと子供と二人でおかあ、お父さんをこうやってお送りする、でこうやってこうバイバイだけすわけなんですね、主人が向こうに行った時にね、その子供が急に「バァー」っち言い出したっち、もうびっくりするが振り返ってみてから。「あ今なんか『バァー』っち言うたごたったねぇ」と、「あ今『バァー』っち言いました」っち。「はぁこれはもうおかげじゃあるよね」っち言うてその、夫婦も言わば、主人も喜んで行き、またあその時にもですたいね。
 今まで(笑)言うた事がなかったのが、バイバイのバァーだけを言うた、さあそのバァーばバァーだけ言うただけでも、それこそ夫婦の者が涙流れるごと有り難かった。「バァーっち言うたじゃないか」っち言うわけ(笑、バァーどころじゃなかもう。これはもう本当にどげなんお喋りでも出来るごつだんだんおかげ頂いて行きよっとですけんね、お互いのその子供達の事でもですたい、ね。
 ものが言えておるというだけでも実は有り難いのだけれどもそういうこっおかげを頂くと、そのバァーと言うただけでも有り難い、だからそう言う様な有り難さはですね、例えばなら今度はまた、ものを言うようになってもです。おかげを頂いたのだけれども、それだけであったらそれもうそれだけなのです、ね。ですから私共が頂いておるおかげに対して本当に心の底から、「おかげを頂いて有り難いなぁ」ね、例えばお粥さんでもこうやって腹一杯頂かせて頂くということ、「あ、有り難いなぁ」と。
 「こういうがじぜがわでも味付けりゃあ、こんなよか味まで美味しいもんだな」と、言うてですね、その、言いよる、内容というものを頂かなきゃいけんと言う事。明日一ちょ内にはもうお茶粥炊いてから、子供達がお茶がゆ作ってみよる、で先生どうなれ一ちょ四杯半食べてみようっちいう、そういう真似したっちゃいっちょ、有り難かつはいかんですこればっかりは、いわゆる「形の真似は出けても心の真似が出けんから」と言う事なんです、問題は神様に許されなければ、そのお粥さんの美味しさというものを許されなければ、美味しいと思われんのですから、ね。
 そこで皆さんそこん所をしみじみ、「どうすれば喜びが許されるか」と、ね、「どういうあり方に成らして頂いたら喜べるか」と、考えてみりゃあ話を聞いてみりゃあ、お礼の申し上げる事ばぁかりなのだけれども、お礼の実感というものがないと言う事、ね。そして言うなら、今日もどうぞ平穏無事ばっかり祈っておるような信心では、いつまで経っても同じ事と言う事、ね、
 どのようなことの中にでも喜べれる、ね、この世で最低な食べ物であろうという食べ物を頂かせてもろうても有り難い、しかも美味しい、ね、美味しい味合いと、有り難いという心をです、許されなければ、私共は美味しいとも、有り難いとも、言う事になれんのです、ね。私は信心とはですね特別変わった、奇跡的なおかげを頂くと言う事が有り難いのではなくてです、今自由にという物ある物、ね、
 それを有り難いと発見させてもらう、心からその事にお礼が言えれる様に成ると言う事が、私は信心だと思う、ね。それでうんならあなた達は、雨露しのがして頂くほどの立派な家、住まれとるじゃないか、そのおかげを頂いとるじゃないか、じゃないかというて、れいをいわなければ成程そうなんだけれどもです、所がどっこい実感として喜びが、頂けない。有り難いと思うておるのにばってん、有難いと言う事にならない、その有難いというもの、その有難いという心が、ね。
 いわゆる「じっとしてはおられない」と言うて、それぞれの御用にです、一生懸命に打ち込んで行けれる様な有難さ「あんた馬鹿じゃなかろう、あげなんこつば言うちから腹の立たんの」っち言われたっちゃ「私は有難かあの、腹の立つよりかもう有難うして応えん」と言えれるような内容なんです、ね。そういう私は内容を求めて、信心をしていかにゃならん、そういう内容がこれに蓄えられていく、ね、それが蓄えに蓄えられて、言わば、心の分限者という、お徳を受けるのである、ね。
 めに、私はどうでも、神様の喜びを頂けれる信心をさしてもらわなければ、神様は喜びは、私共の上に許しては下されないと言う事です、神様に喜んで頂く信心をしなければいけない、ね。「神様に喜んで頂く信心とは。神様に喜んで頂く信心とは」と、開けても暮れても思い続けさして頂かなければいけん、「こげな思い方じゃあ喜びはしなさるまい」「こげなん事しとったんじゃあ神様は向こう向きなさろう」と、ね、そういうものをです私共の心の中から生活の中から、改めていかなければいけません。
 「神様に喜んで頂く私」ね。神様に喜んで頂く事に一生懸命勤めさせて頂いておるから。お茶粥さんも美味しいのであり、有り難いのであると言う事になります、ね、難儀の、人が、が難儀と思われる中にあっても、もう「有り難い有り難い」で難儀のもどこに、難儀なんか全然感じておれないほどの、有り難さというものを、神様は許して下さるのです。私が夏も冬もない夏服一つで、破れ鞄さげて歩いておりました時代に、久保山先生が私の話を聞いて下さって。
 「大坪さん本当にそんなに有り難いとですか」と「本当ですか」と疑うておったように、な時代があったんですけれども、ね、恵まれておると言う事においてはです、ね、まあ言うならば、最低の様な生活をさせて頂いておったんですけれども、私の心の中には、ね。神様が有り難うして有り難うして応えんというものをです、「あの人の後ろからにはほんにゃ、後光がさしござるごたる」と言う様な有り難さがです。
 私の心に許されておったと言う事なんです、私がです、ね、どんなに食べる物がなくても、お金がなくても、どんな難儀が続いても、ね。その中に一生懸命、「神様に喜んで頂けるような、あり方に成らして頂きたい、あり方を頂き練らして頂きたい」という、開けても暮れてもその思いを、神様が受けて下さって私の心の中に、そういう喜びを許されて、許しておって下さった。
 そういう喜びが溜まりに溜まり、積もりに積もり、そしてそれを人に分かち与えられるような、おかげにだんだん成って来たんだと私は思う、それが椛目の助かりの元なのだ、ね。信心しりゃあよかごとばっかりあるというのじゃない、降りもするけども照りもするけれども、吹きもするけれども、折れんですむ濡れんですむ、ね、そこの所を祈うていかなければいけん、「今日もどうぞ平穏無事に」と、ね。
 それはやはり病むに病まれません、やっぱりその祈らなければおられません、ね、床に休ませて頂く時、床ん中でもう必ず祈らせて頂きますこと、ね。「どうぞ火難盗難水難」ね、最近まいっちょ言う交通、私が寝ておる間にお願いしよらん間に、そのことばいっちょん祈らんと言うから、やっぱり祈らずにはおられん縋らずにはおられん、皆の、一人一人のことに上にです、親愛会かいぎょうしん会員一同の上の事をです。
 やはりもう一番最後までそれを祈らな願わなおられんのだけれども、けれどもそのもう一つ向こうの方にはです「どう言う事があっても驚かんですむ信心を、頂かしておって下さい」という信心、ね「降っても照っても、どうぞ濡れんですむような暑い思いをせんですむような、折れんですむような信心を、頂かして下さい」という願いがその、根底になからなければならない、皆さんで言うならばです、ね、
 なら、平穏無事を願うてはならんというのではない、「今日子供が遠足に参りましたから、どうぞあの人だけではない、言わば、あの人の連れ一同が、無事に楽しゅう遠足から帰ってまいりますように」と願わにゃおられんのが、親の気持ちなんですから、やっぱり願うです、ね。だからお取次ぎ頂いたらです、もうお取り次ぎを頂いたら、もうそれは神様にお任せするのだ。そして後はどの様な事があっ、どの様な事になってもです、どの様な場合でもです。
 それを有り難く頂いていけれる信心をこそ、頂かして下さいという願いをです、またその稽古がです、なされていかなければいけません、と言う事金光様の信心のここん所をです、本気で分からしてもらい、そこん所をです一つしみじみ、ね。味合わせて貰う信心と、産みなしてもらう願わして貰い。夜の御祈念なんかに出らして頂いたら、もうなんぼお礼を申し上げても、お礼を申し上げても、申したりん、ね、なんぼお詫びしてもお詫びしてもお詫びして、しようが、しようがたりん。
 この神様の前を離れられない位なです、そういう思いの信心が一家の上に通うてまいりましたら、その家は有り難い雰囲気の中に包まれた家庭が育っていくでしょう、ね。「さあ今夜は椛目の月次祭ばい」「さあ地味早う閉めてから、さあ家族一同でお礼参拝させて頂こう」と言う様なです、有りがたぁいお参りが出来るような、ね、しみじみとして家族中の者がお礼が申し上げれるようなです、ね、家庭生活の上に信心の稽古がなされていかなければならん、ね。
 「どうぞああなります様にこうなります様に」という願い、ね。願いを段々持たして頂くという持たなければおられんので御座いますけれども、ね、それは私共が痛ければ痛い、痒ければ痒いそれが実感なのだから、お取次ぎを願うに致しましてもですね、そのそこに流れておる所のお道の本当の信心。今朝から「真一心」と言う事について頂いた、ね、真とは教祖の神様が「一心とは迷いのない事ぞ」とこうお仰る、ね、
 真とは「勤めても、又勤めても勤めても、ね、足りぬが人の真なりけり」という唄を頂いた、ね、私共がですどんなに勤めさして頂いても勤めさして頂いてもです、ね。いわゆる教祖の神様のお言葉借りて言うならば「これですんだとは思いません」と言う様な、信心が実意に日々の信心の中に、織り込まれていかなければいけない、難しい事を言うじゃない。自分に出ける事自分の足元になんぼでも転がっておる事、もうこんくらいの事なら気安出来る事、ね。
 その事をです私はなして行く事が真であると私は思うです、ね、そしてまあ言うならばです「是で済んだとは思いません」というものがある、もうこうすりゃ先生が喜ばれる事が分かっとるばってんかもう出来る事なんだ、こうすりゃもう神様が喜ぶこと分かっとるけれども。先ず一遍こうおかげ頂いてから、一気にガバァーっとこうそのどうか、お供えでもする事が、神様の喜ぶかのように思うてはまじ、いけない、ね。日々の中にです、もう自分で今すぐでも、思い実行が出来る事、ね。
 その事を現して行くのが真なのである、ね、と言うてうんなら私共の、おお思いの中にはです、ね、なんぼしたところで、どれだけなことをした所で。「是でも済んだとは思わん」と言う様な思い方こそです、ね、うんなら真とは、いくら尽くしても尽くしても足らん、言わばです、「それはもう私団は真は出けんけんでもうやらんほんがよか」と言うたらもうだからおしまいだと言う事、ね。
 そこん所を限りなく私共が追求して参りまして、私に出来る範囲がです段々広う深うならして頂いて、おかげの頂いていけれるようなおかげを頂き、ね、本当に真を持って一心を持って、迷わない心を持ってです、今日私が申しました様な事をです、ね。本当にしみじみと神様に、お礼を申し上げれる様な、内容の信心をですこう言う様な事の中にでも、こういう有り難いものが感じれれる様になったという。
 信心をです身につけて行って頂きたいと、思うので御座います、どうぞ皆さんも十分分かっておいでおられる事を、なので御座いますけれども。分かっておる事がなされてはいません、金光様の御信心とは、ね。ただ安産のおかげを頂きます様に、安産のおかげを頂いたならお礼参りをすればそれで済んだと言う様な信心ではなくて、只なら平穏無事だけを祈ると言う事が、信心ではなくてどの様な中にでもそれをです、折れずに濡れずに、ね。暑い思いをせんですんで行く様な道を、追求していって行くと言う事が。
 お道の信心であると言う事をです、もう一遍思わしてもらい、もういっもう一遍そこん所をです。しみじみと自分の心の中に、頂き込んでまいりまして、さあ明日から喜ぼうと言うて喜べるのじゃないけれども、神様から許される喜びためにはです、神様に喜んで頂くという信心、なら神様に喜んで頂くという信心はどういう信心か。と言う事を追求して、ね、神様のお喜びを繁栄する所の喜び、それを私共の生活に頂いて参りまして、おかげを頂いて行きたいと思うのでございます。
   どうぞおかげを頂きました。